映画 「42」世界を変えた男
日本時間の11月1日の映画「42」が公開!
その主人公が ジャッキー・ロビンソン という男です。ブルックリン・ドジャースで活躍したメジャーリーガーであり、人種差別の壁をぶち破った選手です。彼の背番号が「42」で、映画のタイトルにもなっています。
永久欠番の「42」
ジャッキー・ロビンソンがデビューして50年目にあたる1997年に背番号「42」が全球団で永久欠番となりました。その時点で「42」をつけていた選手には継続して背番号を使用することが許されました。なかでも最も有名な選手がニューヨーク・ヤンキースのマリアーノ・リベラです。リベラは今年2013年シーズン限りで引退し「42」を背負う選手は、97年から16年目にしてメジャーリーグからいなくなりました。ヤンキースではロビンソンとならびリベラも永久欠番となりました。
マリアーノ・リベラ |
アメリカでは1年に1度しか「42」を背負うことが出来ません、プロ野球で外国人選手が「42」を付ける選手が多い理由のひとつかもしれません。また、私も日曜日に地域の野球リーグに参加しています。チームにもアフリカ系の選手がいます、彼の背番号はもちろん「42」です。
松井秀喜 選手 |
イチロー 選手 |
高橋尚成 選手 |
アフリカ系選手として初のメジャーリーガー??
正確には、「20世紀初のアフリカ系アメリカ人選手」です。1890年頃以降は有色人種排除があり50年間は真っ白な野球界と言われていました。1890年以前にアメリカンアソシエーション(アメリカンリーグ、ナショナルリーグとなる前)でアフリカ系の選手がプレーしていました。1945年にブルックリン・ドジャース社長兼GMのブランチ・リッキーに誘われ契約金$3,500、月給$600の契約を交わし、1947年にメジャーリーグデビューを果たしました。ロビンソンとの契約にあたりリッキーは「これから様々な困難や仕打ちが待ち受けている、それに対してやり返さない勇気を持った選手が欲しい」と言ったそうです。
1955年にマーティン・ルーサー・キング・ジュニアなどによる公民権運動が始まる以前のことなので、学校やトイレなどの公共施設やバスなどの公共交通などは白人とそれ以外の人で区別されていました。もちろん試合観戦でも座席は分かれていました。(*劇中で観ることが出来ます)
幼少期からニグロリーグ
1919年1月31日に奴隷の孫として生まれ(5人兄弟の末っ子)、生後6ヶ月でカリフォルニア州パサディナへ移り住みました。兄はベルリンオリンピック200mで銀メダルを獲得している。悪戯っ子であったジャッキーはゴルフ場に侵入してボールを盗み、そのボールゴルフ場に売るなどしていました。ロビンソン自身も高校スポーツ(フットボール、バスケットボール、野球、陸上)で素晴らしい活躍をみせます。陸上では7m79cmの幅跳びの記録で優勝しました。短大で2年間プレーしたのち、大学の奨学金でUCLA進学、バスケットボールでは2年連続リーグ得点王、幅跳びでは全米優勝、アメフト全米大学選抜のハーフバックに選ばれる活躍をみせました。アフリカ系アメリカ人には学は必要ないという理由で大学を中退しました。彼の目標はプロスポーツ選手だったが、ここでも人種差別により、スポーツ選手への道は開かれませんでした。国立青少年育成局の体育教官となり、休日にはセミプロでアメフトをして生活していました。アメリカの第2次世界大戦参戦に伴い陸軍に招集されました。ジャッキーは士官学校への入学を希望するも、人種差別を受け入学を拒否されてしまいます。その後、ボクシングの世界ヘビー級王者のジョー・ルイスと出会い、彼の後ろ盾のおかげで士官学校への入学が許可され、少尉となりました。陸軍ではアメフトと野球をプレーしていました。この頃はやんちゃな性格とルイスの力もあり、軍のバスで黒人用の席への移動を命じられるも拒否し問題を起こしてしまいます。1944年に除隊し、野球のニグロリーグでプレーをしていまいたが、1年で退団となります。
ドジャース入団の話は映画で描かれています。
背番号1
映画のポスターでジャッキーと肩を組んでいる背番号「1」がピー・ウィー・リースです。彼の優しさ・受容がロビンソンがドジャースで成功したことへの助けとなっています。彼はロビンソンの入団直前、他の所属選手から出ていた入団拒否の嘆願書への署名を拒否しています。1947年にロビンソンが入団すると、リースはチームメイトの前で真っ先にロビンソンと握手をして他の選手に見せました。また、遠征先の球場でロビンソンが誹謗中傷を受けていると、リースは守備時にロビンソンと黙って肩を組みました。(映画ではクライマックスのシーンとなっています)この光景を目の当たりして観客の誹謗中傷は徐々に減りました。後日ロビンソンはリースについて「彼は何度も自分を助けてくれた。しかし彼はそのことを自分の手柄にしようとはしなかった。」と、リースの人となりを語っています。1948年にロビンソンが二塁手のレギュラーに定着すると、彼らはロビンソンが引退する1956年までドジャースの二遊間を形成し、チームのリーグ制覇を支えたコンビです。
ニューヨーク・メッツ傘下のブルックリン・サイクロンズのホームスタジアムのMCU Park にはリースとロビンソンが肩を組んだ銅像があります。
背番号1はドジャースで永久欠番となっています。
今の残る功績とリスペクト
UCLAの野球場の名前は
「ジャッキー・ロビンソンスタジアム」
UCLAキャンパス内にある体育会の博物館にもロビンソンのコーナーがあります
ドジャースのショップやMLB ショップでは現在もジャッキー・ロビンソンのユニホームなどが販売されています。
*参考:Wikipedia
金田 友樹(Yuki Kaneda)
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